「東京都による青少年健全育成条例改正案と『非実在青少年』規制を考える。」緊急集会@ニコ生放送

本日、都庁において、東京都青少年健全育成条例改定案に対する、有識者によるシンポジウム(山口弁護士は「イベント」と称していましたw)が開かれました。残念ながら私はその場に一般参加することは出来ませんでしたが、なんとか時間を空けて、ネット中継を見ていました。ニコニコ動画YouTubeといった動画投稿サイトはしばしば著作権侵害論議の俎上に上がることもあり、弊害が全く無いとは言えませんが、他方で、このようなピンポイントかつリアルタイムの情報配信ツールとしての有意性については高く評価しなければなりません。少数派が意見を言う権利を保障することが「表現の自由」であり、そのための手続・プロセスを保障することが「民主主義」なのですから、今回の配信はまさにその精神に沿ったものであったと言えましょう。


さて、シンポジウムの内容についてですが、端的に言って、再放送なりまとめサイト等なりを見てもらった方が早いです。それに、憲法論・法律論については既に書きたいことは書き終えましたし。そこで、見ていて特に印象的だった三点についてのみ、少しだけ言及します。



・『ハレンチ学園』は規制対象外

どのパネラーさんの発言だったかは忘れましたが(永井豪先生ご自身だったかも)、「『ハレンチ学園』はおそらく規制対象とならない」という返答が、都の職員からあったそうです。しかしながら、この判断には首を傾げるというか、はっきり言って理解しかねます。そして、それは私だけではないと思います。

ハレンチ学園』は、性描写と体制批判によって話題となった作品です。所謂「エログロナンセンス」ではなく、深いテーマ性を有する作品ではありますが、他方で、性的描写は切っても切り離せません。したがって、『ハレンチ学園』を知っている人間の素朴な感覚としては、同作は真っ先に改定案の対象となる(一号・二号のどちらからでも規制出来るでしょう)はずなのです。それにも拘わらず、同作はおそらく規制対象とならないと言う。このことは、改定案の持つ二つの大きな問題点を端的に露呈しています。

一つは、規制対象の漠然不明確性です。改定案の基準に照らして素直に考えればまず間違いなくアウトであろう作品が、規制対象とはならない。それならば、規制基準がよほど緩いのかと言えば、決してそうではない。つまり、規制されるかどうかの予測がまるで立たないわけです。それは、明確性の理論に抵触して、表現行為に萎縮効果をもたらすことを意味します。

もう一つは、条例運用の恣意性です。前述のように、改定案からは、『ハレンチ学園』が規制対象とはならない論理的根拠がまるで読み取れません(永井先生ごめんなさい)。そうすると、「論理的ではない」理由があるのではないかという疑いが生じます。すなわち、「『ハレンチ学園』は、漫画業界の古参重鎮である永井豪の作品だから可とする」というような理由付けがなされるのではないかと邪推せざるを得ないのです。その路線で行くと、ドラえもんサザエさんジブリアニメなんかも無条件で規制対象外となりそうですね。他方で、駆け出しの新人漫画家の作品や零細雑誌の掲載作なんかは、あっさりと規制されそうです。もしも、このような、作者のネームバリューや制作会社・出版社の大きさによる差別がなされるとしたら、それは憲法14条の規定する「法の下の平等」に抵触します。また、実際にはそのような差別がなされないとしても、「差別がなされているのではないか?」という強い疑義を抱かせる時点で、強烈な萎縮効果を生じさせているのです


……とここまで書いて思ったこと。憲法学においては、憲法21条(表現の自由)を論じる際に、「萎縮効果」というものを非常に重視します。すなわち、直接的な表現規制の是非のみならず、それによって生じる萎縮効果(その制約により、本来許される範囲内の別の表現を行うことをも躊躇させてしまうという効果)を排除しなければならないというのが、憲法学における大命題なのです。ところが、今回の規制においては、規制推進派はまさにその「萎縮効果」をこそ狙っているわけですね。それではお話にならんですよ。



・規制基準の詳細は後ほど規定する

藤本女史の発言の中で、「『30歳の男性と16歳の少女とが真摯な恋愛の末に結ばれて肉体関係を持つ』という漫画を描いた場合にそれは規制対象となるのか?、と都の職員に質問したところ、『その作品を実際に読んでみないとなんとも言えないが、具体的な基準については、とりあえず条例が改定された後に規則等で決める』という回答があった」という行がありました。

これはすなわち、改定案(=改訂後の条例の文言)は曖昧不明確なものであるが、それを下位法規によって補足するということです。この是非については議論の分かれるところで、既述の岐阜県青少年健全育成条例事件判決について、憲法学者芦部信喜教授は、「取扱準則を定めて、条例の基準を合理性の認められる程度に具体化し、それが成人の権利・自由を侵すことのないよう慎重に適用されている場合には、条例自体を明確性の原則から直ちに違憲と解することは困難であろう」と述べていました(クリアに合憲だとは言っていません)。

しかしながら、今回の件はいわば「後出しじゃんけん」です。「とりあえず規制はするよ。何をどこまで規制するかは後で適当に決めるから」と言って条例を制定するのが民主政だと言えるのか。都民(国民)に対して結果についての予見可能性を与えず、それどころか対話のプロセスすら保障しない。これは、議会制民主主義を真っ向から否定するものであると言わざるを得ないでしょう。



・文章は対象外

今回の「非実在青少年」規制においては、文字only媒体は規制の対象外となります。つまり、小説は基本的に規制されません(ライトノベルのように、表紙や挿絵がふんだんに使われ、作者とイラストレーターの相乗効果で人気を有するものについては、対象外とはならないと考えるべきでしょう)。『源氏物語』は対象とならないかもしれませんけど(内容的にはロリコンザコン不倫に拉致監禁レイプと一通り揃った鬼畜ハーレクインなわけですが)、その漫画化はアウトかもしれませんね。大和先生とか大丈夫かしら。ともあれ、この仕様は明らかに謎です。文章だけを除外する合理的理由が全く無いのです。


表現規制の問題で真っ先に論題に上がるのは、実は児童ポルノだの青少年保護だのではなく、ずばり「わいせつ(前にも言いましたが、法律学では「エロ=わいせつ」ではありません)」規制の問題です。刑法175条は、

第一七五条
わいせつな文書、図画、その他の物を頒布し、販売し、又は公然と陳列した者は、2年以下の懲役又は250万円以下の罰金若しくは科料に処する。販売の目的でこれらを所持した者も、同様とする

と規定しています(わいせつ図画等頒布罪)。この条文については、

  • 一定の倫理道徳を根拠に表現の自由を規制するものである
  • 「わいせつ」の定義が曖昧である

等の理由による違憲の主張または疑義が根強くありますが、それはさておき、この条文の運用指針を固めた三つの判例は、いずれも小説を対象としたものです。すなわち、

の三つの判決が基礎となっているのです。現代の感覚では、チャタレイが「わいせつ」だなどと考える人はまずいないでしょう(判決当時ですらそう主張されていました)。それどころか、「名作文学」として扱われているのが現状です。また、『悪徳の栄え』については、「澁澤の訳は原作を相当に意訳し、非常に雅語的な表現で書かれたものであり、文学的素養が無ければおよそ理解出来ない。一般人が性的に興奮するようなものではない」「エロと言うよりむしろグロ」などと当時から評されており、私自身も同様に考えています。

悪徳の栄え [正]

悪徳の栄え [正]


ともあれ、上記の判決は全て一流の文学作品に対して下されたものなのです。したがって、純文学さえ「わいせつ」物と捉えられうるのに、玉石混淆の小説一般が「わいせつ」概念よりも広汎なはずの「有害」「不健全」指定の対象とならない道理がありません。

にも拘わらず、文章表現が「非実在青少年」規制の対象とならないのは何故か。まさか現都知事がもともと文筆家だからではないでしょう。これにつき、シンポジウムにおいて、山口弁護士が、「漫画やグラビアならばページをパラパラめくれば性表現等の有無を簡単に視認出来るのに対し、小説は文章を読んでいかなければ大変だから」という指摘をしていました。これはおそらくその通りで、指定制度とは、既に販売されている本を購入してそれを審議会にかけて検討する、というのが基本プロセスですから、読むのに時間のかかるものは読みたくないのが当然で、ゆえに文章表現物は除外する、そのような推定が働きます。そうであるならば、明らかに不平等なザル法と言えるでしょう。



私の視点から特に気になったのは以上の三点です。いずれにせよ、よくもまあこんな危険かついい加減な改定案を作ったものですね。