えー、お塩先生の判決って明日出るんでしたっけ? 被告人が芸能人(それも何かとお騒がせな)だったので芸能マスコミはさぞ重大事件のように面白おかしく連日報道しておりますが、実際にはまあ普通の案件ですわね。もっとも、保護責任者遺棄致死罪の事案としてはある種の限界事例的な面があるので、学生の試験問題なんかには向いていそうですが(答案を書くとしたら、有罪・無罪のどちらででも書きやすいでしょう)。


ところで、「助かった可能性は極めて低いから成立しない」という弁護に違和感を感じるという人はどれくらいいるんでしょうかね。感じる人が多数派なのかな? 実のところ私はさほど違和感は感じないんですよね。というのも、救命可能性の有無というのは保護責任者遺棄致死罪の成立を検討する上での論点の一つだからです。

一般に犯罪が成立するためには幾つかの要件をクリアしなければなりませんが、その要件の一つに「因果関係」というものがあります。つまり、行為と結果の間に因果関係がなければ犯罪は成立しないわけです。そして、この因果関係はあくまで「法的な」評価です。したがって、科学的見地から万に一つの可能性が残っていたとしても、それゆえに因果関係が遮断されることはないとは言い切れないのです。

今回の件で言うと、被告人が救護の手を尽くそうが尽くすまいがどのみち女性が死亡していたのであれば、それは、被告人の行為(不作為)と死の結果との間には因果関係がないことになります。そして、その死亡の可能性が100%でなければならないということでもありません(ゆえに「可能性は極めて低い」という主張を行っているのだと思いますが)。この、因果関係を切断しようとする主張が通るかどうかは別段、主張の仕方としては別におかしなものではありません。

また、もしも「気が付いたらいつの間にか死んでいた」という状況であるならば、そもそも遺棄する故意がないのだから犯罪は不成立でしょう。もちろん、未必の故意や重過失が問われれば別ですが。


この手の違和感を感じるかどうかは、法律論に縁があるかないかに大きく左右されるのでしょうね。例えば、民事の貸金返還請求訴訟(貸した金を返せ)において、被告は「金なんか借りてないけど、もし借りていたとしてももう返した」という主張が可能です。日本語としては明らかにおかしいんですけど、法律論としては間違ってないんですね。でも、一般人はもちろん、学部生レベルでも分かりにくいとは思います。実務技術の領域に踏み込んでいますので。

別の例を挙げましょう。「A=A+1」という式があった場合、数学的な味方しかできない人にとってはおかしな式だと思います。しかしながら、プログラミングの知識がある人から見れば代入式であるという判断が付くでしょう。つまり、これらはその業界に特有の特殊な言語と言っても良い。刑事の裁判員裁判にしろ民事の本人訴訟にしろ、そういう専門技術を持たない人間を介在させる場合には、まあいろいろと大変だなと思いますよ。



なお、余談ながら。むかーし昔、裁判法の講義で講師の教授が言っておりました。曰く、「日本に民事裁判が根付かない理由の一端は、マスコミ等が民事被告と刑事被告人とをごちゃ混ぜにして使っていることに起因する」と。即ち、本来は私人間の紛争における一方当事者でしかない「被告」という概念に対し、あたかも犯罪者として糾問される存在であるかのような印象を植え付けているというのです(刑事被告人に対する糾問という概念が妥当かどうかはまた別問題です)。実際にそうなのかどうかは知りませんが、感覚的にはその通りであろうという気がしますな。

ちなみに、民事「被告」という言葉を変更しようという意見もあるらしいのですが、代替出来そうな言葉が既に何かしらで使われていて変更しようにもしづらいらしいです。