改定・東京都青少年保護育成条例についての小考

春先に話題となり6月に一度は否決された東京都青少年保護育成条例の改定案が、昨日都議会本会議で改めて可決されました。6月の所謂「非実在青少年規制」の時には否決された都条例改定案ですが、今回は「非実在青少年」の文言こそ削られたものの、内容的には前回よりも規制範囲が拡大されてると言ってよいものです。それにも拘わらず今回の案には都議会民主党が賛成に回ったというのは大いなる謎です。その上、そのような文言上の問題以上に、今回は改定のプロセスそのものに大きな疑問が投げかけられました。そこで、今日は今回の条例改定について、その問題点を総括してみたいと思います。なお、本エントリでは、今回の改定案による変更部分及び法解釈論以外の問題点についてのみ言及します。



■ 改定条例の文言

(図書類等の販売等及び興行の自主規制)
第七条 二号
漫画、アニメーションその他の画像(実写を除く。)で、刑罰法規に触れる性交若しくは性交類似行為又は婚姻を禁止されている近親者間における性交若しくは性交類似行為を、不当に賛美し又は誇張するように、描写し又は表現することにより、青少年の性に関する健全な判断能力を妨げ、青少年の健全な成長を阻害するおそれがあるもの


(不健全な図書類等の指定)
第八条 二号
販売され、若しくは頒布され、又は閲覧若しくは観覧に供されている図書類又は映画等で、その内容が、第七条第二号に該当するもののうち、強姦等の著しく社会規範に反する性交又は性交類似行為を、著しく不当に賛美し又は誇張するように、描写し又は表現することにより、青少年の性に関する健全な判断能力の形成を著しく妨げるものとして、東京都規則で定める基準に該当し、青少年の健全な成長を阻害するおそれがあると認められるもの


(表示図書類の販売等の制限)
第九条の二 二号
第八条第一項第二号の東京都規則で定める基準 漫画、アニメーションその他の画像(実写を除く。)で、刑罰法規に触れる性交若しくは性交類似行為又は婚姻を禁止されている近親者間における性交若しくは性交類似行為を、不当に賛美し又は誇張するように、描写し又は表現することにより、青少年の性に関する健全な判断能力を妨げ、青少年の健全な成長を阻害するおそれがあるもの


うわあ、ほとんどの部分が赤字になっちゃったぞぅ(棒

個別に見ていきましょう。

青少年の性に関する健全な判断能力を妨げ、青少年の健全な成長を阻害するおそれがあるもの


青少年の性に関する健全な判断能力の形成を著しく妨げるものとして、東京都規則で定める基準に該当し、青少年の健全な成長を阻害するおそれがあると認められるもの

このような文言は青少年条例の基本フォーマットであり、特に珍しいものではありません。無論、基準が漠然不明確であるという批判も常につきまといます。

また、有害図書等規制の正当化論拠はかいつまんで言えば「成人は見ても問題ないけど、未成年には有害だから、未成年がそれらの表現物にアクセスすることのみをブロックするよ」という点にあるわけですが、そのような有害図書等を指定するのが行政側(=成人)であるということは、「有害指定をする人間にとっては有害ではないものを他人(未成年者)には有害であると勝手に決めつける」という行為に他ならないわけで、それは矛盾したことであるとの批判もされています。

(実写を除く)

本件改定案による規制の対象は漫画・アニメ等の所謂「二次絵」に限定されており(ゲーム等も含みます。従来から各地の青少年条例においてゲームも規制対象となっています)、実写は除外されています。また、どうやら、小説も除外となるようです。しかしながら、この区別に合理的な理由があると言えるのでしょうか。けだし、未成年への影響という点では差違はないように思えるからです。

これにつき、実写については自主規制やレーティングが十分であるという理由付けのようです。しかし、これは奇妙です。コミックやゲームにおいても、18禁のレーティングはきちんと行われています。また、成年コミックまがいの一般コミックが氾濫しているという主張についても、−その妥当性はともかくとして−、実写におけるきわどい描写やソフトポルノの存在と何ら変わるところはないはずです。自主規制についても、−私はAVを見ないのでネットで見かけた伝聞であることは断っておきますが−、AVと成年コミックエロゲーでAVの方が表現が謙抑的であるとは言えないように思えます。なにより、一般に性メディアの代表といえば実写のエロ本とアダルトビデオでしょう。成年コミックエロゲーは、オタク層にとっては馴染み深いかもしれませんが、性メディアとしてはマイナーな部類に入るはずです。以上に鑑みると、実写と漫画・アニメとで扱いを異にする合理的な理由は見あたらないでしょう。

小説についてはそもそも、自主規制やレーティングが行われているのでしょうか? 寡聞にして私は知りません。また、「有害」図書の定義は「わいせつ」図書の定義よりもはるかに広範にわたるものですが、「わいせつ」の概念を固めた三つの判例(チャタレー事件判決、悪徳の栄え事件判決、四畳半襖の下張事件判決)はいずれも小説、それも、D・H・ロレンスマルキ・ド・サド永井荷風という一級の作家による文学作品についてのものです。小説が「わいせつ」足り得るならば、当然に「有害」ともなり得るでしょう。したがって、小説を除外する合理的な理由も見あたりません。

以上に鑑みれば、規制対象を漫画・アニメ等の二次絵に限定する本件改定には合理性がありません。結局のところは、本改定案には文面上は「非実在青少年」という言葉は登場しませんが、実際には「非実在青少年」を狙い撃ちする意図があるのだと言わざるを得ないでしょう。

刑罰法規に触れる性交若しくは性交類似行為

刑罰法規を刑法だけに限るならば、強姦、準強姦、強制わいせつ、準強制わいせつの各罪となり、ある程度範囲は明確かつ限定的だと言えるでしょう。逆に、数多の行政法規を含めるならば明確性と限定性には難が生じます。

強姦等の著しく社会規範に反する性交又は性交類似行為

「強姦『等』」とあるように、単なる例示列挙であり、いくらでも射程を拡張出来ます。これにつき、「社会規範に反する」という文言が曲者です。まず、「刑罰法規に触れる」という場合と異なり、「社会規範に反する」範囲は何処までなのかが極めて漠然不明確です。場合によっては過度に広汎なものにもなります。また、「著しく」という文言は一見すると「社会規範に反する」範囲を限定する効果を持つように見えますが、実際にはもともと曖昧な条件を限定しようとしたところでさほどの効果はなく、むしろ曖昧さに拍車を掛けるだけの結果になると思われます。

同性愛などもこの文言で規制されると指摘されています(むしろそれが本丸だという声もあります)。いずれにせよ、規制範囲を限定する効果は実際には無いと言ってよいでしょう。むしろ「非実在『青少年』」という文言が外れたことによって登場人物の年齢を問わず規制対象とされることになり、規制範囲は飛躍的に広がっていると言えます。

なお、前提として特定の倫理思想(売春は悪である、同性愛は悪である等)を「社会規範」という言葉の下に強要することが許されるのかという問題は当然に生じています。

不当に賛美し又は誇張するように

これも文言が漠然不明確です。

婚姻を禁止されている近親者間における性交若しくは性交類似行為

「婚姻を禁止されている近親者間」というのは三親等内の血族ということであり、範囲は明確です。しかしながら、民法が近親婚を許容しない一番の理由は優生学的なものであり、近親相姦自体を違法と評価しているわけではありません。近親相姦に生理的嫌悪感を感じる人が多いであろうことは事実でしょうが、条例がそれをあたかも害悪として扱うことにはいささか問題があるように思えます。

また、より一層問題なのは、この条項が近親相姦の描写があるもの全てを規制の射程に入れているという点です。それが神話のようなものであろうと(洋の東西を問わず、およそ神話というものは近親相姦がてんこ盛りです)、最終的に近親相姦を否定する結末の物語であろうと、途中に近親相姦の場面描写があれば一律的網羅的に規制の対象とすることが出来ます。これでは規制が過度に広汎に過ぎると言えるでしょう。


以上に見たように、本条例改定案の文言には少なからぬ問題点があります。「非実在青少年」という文言は削除されましたし、部分的には規制範囲が明確になったようにも見えますが、実際には漠然不明確な部分が核心部分においていくつも残っていますし、そもそも、規制対象となる範囲そのものは前回の改定案よるも大幅に広がっていると言えるのです。

加えて、立法主旨がどうにも怪しく思われます。前回の改定案では「非実在青少年」規制という失笑ものの概念を持ちだしたのは事実ですが、他方でそれは十八歳未満の未成年による性描写を二次元フィクションにおいてすら規制するのだという一応の筋というか建前のようなものがありました。しかしながら、今回の改定案ではその建前すら取り払い、形振り構わぬ規範主義(山口弁護士は「純潔主義」という文言を使用されていますが、そちらの方がしっくり来そうです)を押しつけようとしているようにしか見えません。各都議が賛成するも反対するも個人の自由ではありますが、本改定案が前回案よりもよくまとまった許容出来るレベルのものだと言われてしまうと、それは木を見て森を見ていないのではないかと言わざるを得ないところです。



次に、文言以外の事項についての本件改定案の問題点を指摘しておきます。


■ 民主的プロセスの不存在

たまに勘違いしている人がいますが、多数決という方式が民主的なわけではありません。多数派が数に物を言わせて少数派を圧殺するのは単なる多数者支配であって、民主主義ではないのです。民主主義の根幹は対話と討論のプロセスです。少数派の意見をよく聴き、意見をぶつけ合う。そして、最終的に甲乙付けがたいが同時に並び立つことは出来ない価値観同士が衝突している場合に、多数決という方式でどちらかを選ぶに過ぎないのです。

しかるに、今回の条例改定において、その対話のプロセスが十分に機能していたと言えるでしょうか。本改定案に対しては、各所から批判と反対の声が上がりました。法曹界、ペンクラブ、図書館協会、作家協会、多数の大手出版社、在野のクリエーターや有識者、そして多くの一般市民が的確に問題点を指摘し、その危険性を訴えました。全国から集まった陳情書も、条例案の正否に対するものとしては異例の数であったそうです。しかしながら、それらは一顧だにされることなく、拙速なまでの短期間で改定案は成立されました。

当事者たる市民の声に対する対話のチャネルを閉ざした状態で成立した本条例が民主的なプロセスに則った法と言えるかについては大いに疑問が残るところです。


ガイドラインの不当性

聞くところによると、東京都は、許される漫画表現についての手引き書のようなものを作成しているのだとか。このガイドラインはかなり細かいものになるであろうと予想されますが、そこには二つの問題点が潜んでいます。

一つは、条例本文との関係です。前述のように、本条例改定案の文言には漠然不明確による違憲の疑いがあります。これに対し、もしガイドラインが制定された場合には、条例とガイドラインを併せて読めば漠然不明確とは言えないという主張がされる可能性があります。確かに、実際にそれで漠然性が払拭されることはあるかもしれません。しかしながら、そもそも条例本文が漠然不明確であるのを、他の文書との合わせ技でクリアするということが許されて良いかは疑問です。条文本体の文言が明確でない限りは漠然性有りで違憲と評価すべきでないかと私は考えます。

二つ目はより深刻な問題です。都の作るガイドラインは、いわば行政庁が勝手に作った上命下達的な文書です。条例のような住民自治に則って成立した法令ではありません。したがって、条例本体が漠然不明確でありながら行政庁作成のガイドラインで詳細を定めるというのは、いわば白紙委任状を取るのにも等しい行為であると言えます。そのような行為が許されるかは疑問です。


■ 条例による全国規制効果の問題

本件は東京都の条例の改定に過ぎません。しかし、その影響が東京都内だけに留まるとは限りません。

詳細については失念してしまいましたが、アメリカに次のような事例があります。ある州で、州内では合法とされているアダルトサイトが開設されました。これに対し、ある人がそのサイトに、アダルトサイトが違法である州からアクセスし、その上で、そのサイトが違法であるとして連邦裁判所に訴えました。その結果、そのサイトは違法なものとされました。このことは、地域法によって様々な基準がある場合にでも、結局は厳しい基準のところに合わせて全国的な判断がなされてしまう危険性があることを示唆しています。

本件の場合にも同様のケースが起こりえます。東京都は47都道府県の内の一つに過ぎませんが、出版社と出版流通のほとんどが集中しています。その結果、東京都における規制は、出版機構の心臓部に影響を及ぼし、結果的に日本全国に波及します(以前に書いた「『自主規制』の問題点」も参照)。それでも従来は東京都の青少年条例は全国の条例の中でも穏健な部類であったために問題が顕在化しづらかったのですが、今回の改定で東京都が規制の先頭に立ち始めたとなると、事態は深刻です。一自治体の条例が事実上は全国法として表現規制の効果を持ちかねないからです。


■ 産業としての漫画コンテンツ

この点については門外漢ですので、ほとんど私見であることをはじめにお断りしておきます。

日本の漫画・アニメが世界中で人気を博していることは今さら言うまでもなりません。「MANGA」「ANIME」という英単語は、「CARTOON」「ANIMATION」とは異なる、日本流の漫画・アニメを指しているくらいです。よくコンピュータのOSがMSやAppleといった米国企業に支配されていると言われますが、逆に、世界の漫画・アニメのフォーマットは日本が作っていると言っても良いわけです。

また、産業的にも漫画・アニメは3兆円以上の規模を持ち、将来的にはさらに拡大していくだろうと予測されています。そもそも、日本の国土は資源が乏しく、資源輸出で外貨を稼ぐことは出来ません。また、かつてはお家芸であった工業製品も、人件費その他の関係でコストダウンに限界があり、その結果、国際的な価格競争力の面で不利な立場に置かれています。今後も「モノ」の輸出で勝負していくのは厳しくなっていくでしょう。そんな日本にとって、コンテンツ産業は最大の武器であると言えます。漫画・アニメはその典型で、個人ないし少数者が頭の中で作り出したものを、家内制手工業的な小規模施設において商品化し、それを大金に換えることが出来るという錬金術です。したがって、日本経済の現状と将来を見据えた場合に、漫画・アニメ産業はむしろ保護し、促進すべきものでしょう。それを圧迫するというのは全くもって理解不能です。

無論、国家経済や商業主義のためならば他のことを全て犠牲にしてもよい、などということはありません。しかしながら、後述のように本条例改定案が真に青少年の保護に資するものであるとは言いかねる以上、そのような空虚なもののために実益を失うのはナンセンスだと考えます。



最後に、青少年条例の一般的な問題点として、前回の一連のエントリでは書かなかった点を記しておきます。


■ 公的パターナリズムの問題点

青少年条例における未成年像は、知見と判断力の欠如した未熟な−もっと言えば愚かな−弱者であるというものだと言ってよいでしょう。確かに、未成年は未熟なことが多いのは事実です。しかしながら、未成年と言っても個人差は大きいですし、個人差を別にしたとしても、年齢層による差は明確にあります。例えば、18歳と10歳とではそれこそ大人と子供の違いがあるでしょう。それらを一律に「未成年」というカテゴリーに押し込めることにどれほどの意味があるのかは疑問です。

また、逆に、20歳になれば一律に成熟するのかと言えばそんなこともないでしょう。人間の成長というのはデジタルに区切りがつくものではなく、アナログで少しずつ変わっていくものです。18歳と20歳の差は単に2年分の経験値の差に過ぎません。18歳で0だったものが20歳でいきなり満タンになるわけではないのです。

ところが、現実の社会ではそういう扱いをされます。それまで「保護すべき弱者」とされていた人間が、20歳になった途端にいきなり一人前扱いです。選挙権は与えられるし、罪を犯せば実名報道されるし、何かあったらすぐに自己責任です。援助交際をした18歳の女子高生は「被害者」ですけど、それが20歳の女子大生なら違法行為に手を染めた「犯罪者」扱いですよ? 世間はとかく厳しいのです。

そのような世間の荒波の中になんの訓練も受けていない人間を放り込んでいきなり泳げというのは無茶苦茶です。前もって泳ぐ練習をしておかなければ到底やっていけません。思うに、未成年者は大人とは別の生き物なのではなく、大人の予備軍、大人の訓練生です。手加減はする必要があるかもしれませんが、甘やかしては却ってためになりません。大人になった時に自分の身を守れるように、他人に迷惑を掛けないように、社会や国のことを考えられるように、きちんと教えておかなければなりません。現実に周りに存在するものを一時的に隠しておいても、それは問題を先送りするだけで、何らの解決にはならないのです。

そのような教育は先ずは親や保護者が行うべきでしょう。各々の親がそのような意識を持てば、やがては社会全体に教育の輪が広がるはずです。逆に、安直に公権力に頼ろうというのは、親の責務の法規でしょう。そして、公権力による「保護」は、前述のように問題の先送りに過ぎません。親が公権力にその責務を丸投げし、公権力は子供が成人するまで飼い殺して問題を先送りし、成人後に何かあった場合の責任は全て本人に負わせる。これでは「保護育成」どころか、責任のたらい回しの末に当の保護対象者に最終的にツケを回しているだけです。これでは結局、本人が割りを食います。否、それにとどまらず、なんの訓練も受けないまま形式上だけ大人になった人間に社会参加されるのでは、社会全体、ひいては国の利益そのものを失うでしょう。過度の公的パターナリズムは百害あって一利無しです。



以上に見てきたように、今回の改定条例は、前回改定案以上に漠然不明確性と過度広汎性が強く、違憲の疑いが強いものとなっています。また、規制対象を漫画・アニメに絞ったことにも合理性がうかがえず、その上、制定のプロセス自体にも公正さが欠如していると評価せざるを得ません。私は青少年条例による公的パターナリズムそれ自体に批判的な立場ではありますが、それは別にしたとしても、今回の改定条例がおよそ正義に適う法であるとは評価しえないように思います。