『魔法少女まどか☆マギカ』(2011)

2011年冬アニメの一つであった『魔法少女まどか☆マギカ』(以下、「まどマギ」という)が、4週間遅れでようやく完結しました(なお、筆者は関東で視聴しています)。そこで、今日はこのまどマギについて、ちょいとぐだぐだと書いてみようと思います。よろしければおつきあい下さい。ただし、放送から間もない現時点において、本エントリには壮絶なネタバレが含まれます。よって、改頁しておきますので、最終話未見の方はご自身で判断してから読んで下さい。




1.完結までの軌跡

まどマギは、前評判の高いアニメでした。監督・新房昭之、脚本・虚淵玄、キャラ原案・蒼樹うめ(以下、「うめてんてー」という)、音楽・梶浦由記という錚々たる面々によって製作されたことと、原作の無いオリジナルのTVアニメであったことにより、嫌が応にも期待は膨らみました。もちろん、どこに力点を置いて期待するかは人それぞれでして、うめてんてーのほのぼの魔法少女キャラに期待する向き、脚本が虚淵玄であることに不安を訴える向き、うめてんてー絵と虚淵脚本との悪魔合体による突然変異にwktkする向き、水橋かおりが出ているならとりあえず見とこうぜ!という向きなど、皆、それはもう好き勝手言っていたように記憶しています。あ、水橋云々は俺なw

そんな前評判の中で始まったまどマギは、視聴者の期待を裏切るものではありませんでした。魔法少女物として正統派といえる展開、魅力的なキャラクター、キャラクターとは対照的な異形さを見せる異空間・魔女のデザイン、それらを引き立てる梶浦サウンド、その全てに視聴者は酔いしれました……第3話の中盤、すなわち、いわゆるひとつのマミさんmogmogシーンを見せつけられるまでは。第3話終了後、巷では「やっぱり虚淵のやることだよ!」という悲鳴が飛び交い、虚淵氏自身も、被っていた猫の皮を脱ぎ捨てた宣言を堂々とする始末。グロ描写で知られる虚淵氏に、

マミの死はグロい物を見せたかったわけじゃなく「ひとつ油断するとこうなるよ」という無常感が重要だったんです。また「絶対に生き返りません」ということを明示するために、あの死に方が必要だったというのもあります。

などと言われたところで、

としか思えないわけですw もっとも、実際問題、そのシーンはえぐいシチュエーションではありましたが、グロ描写ではありませんでした。所詮は地上波ですからね。かたや、漫画の方はそれは見事に首ちょんp(ry


この第3話を転機に、まどマギはきゃっきゃうふふなハートフルコメディから、憎悪・憤怒・嫉妬が渦巻く愛憎劇へと変貌を遂げました。淫獣キュゥべえことインキュベーター(以下、「QB」という)の奸計にかかって魔法少女となった挙げ句に次々と命を落としていくマミ、さやか、杏子。そして、残るはほむら(以下、「ほむほむ」という)と、未だ魔法少女となっていないまどかのみ。その彼女たちの前に、最強の魔女・ワルプルギスの夜が姿を現そうとします。

そして、ワルプルギスの夜の登場が目前に迫った第10話の放送当日(なお、関東圏が金曜放送なのに対し、関西圏では木曜放送なので、関西組は一足先に第10話を視聴済みでした)に、大事件が起こりました。東日本大震災です。この未曾有の大災害の前に、当然の如く、各アニメの放送は休止となりました。しかし、他のアニメが1〜2週遅れで次々と放送再開されても、まどマギだけは再開されませんでした。「世界崩壊系の展開だから自粛なのだろう」というコメントを見かけて多分そうなのだろうと同意はしましたが、今回の放送を実際に見て得心しました。ワルプルギスの夜の接近による大嵐、避難所に逃げる人々、戦いに巻き込まれて廃墟となる都市……、これでは到底放送出来なかったでしょう。延期は正しい判断だったと思います。と同時に、視聴者への迅速なサービスを図り、4月中にラスト3話(関西では2話)の振替え一挙放送を行ったのもまた、英断だったと評価出来ます。

このようにしてラスト3話連続放送になったことについては、結果的にそれで正解だったという意見をよく見かけます。ラスト3話が非常に密度の濃い展開であったため、もし通常放送が続いていたとしたら、一週間ずつ待たされてさぞ辛かっただろうというのです。これについては賛同する部分もありますが、待たされたら待たされたでいいじゃんというのが個人的な意見。その一週間を一日千秋にしてあれこれ言いながら待つのもまた楽しい物ですよ。それに、我慢出来なくなって泣き出す頃に姿を見せるのが放置プレイのキモってものです。じらしプレイ大好き♥

もっとも、私自身も、結果的に一挙放送になったことは良かったと思っています。というのは、1-9話と10-12話とでは、後述するように、構成ががらりと変わっているからです。9話まではまどか視点でゆっくりと(でも、少しずつペースを上げながら)話が進むのに対して、10-12話はほむほむ視点に切り替わった上で怒濤の急展開を見せています。そのため、ラスト3話はなんだか映画でも見ているようでした。昔は時々ありましたよね、放送が打ち切られて映画やOVAで決着を付けるパターンが。イデオンとかダンクーガとかそのあたりw 今回の一挙放送はまさにそんな感じだったんじゃないでしょうかね。細切れに1話ずつ見るよりも演出効果が高かったと思います。あくまで怪我の功名ですけど。

かくして、まどマギは完結したわけです。



2.事前予想は当たった?

まどマギのラストについて、私は過去に以下のような予想をついったーにpostしています。

(2/13)

  • 間もなく登場する魔女「ワルプルギスの夜」。これはおそらく第1話のまどかの夢に出てきた蝶強力な魔女だと予想される。問題は、その名前の示している魔女の特性。
  • ワルプルギスの夜」という名前に相応しく多数の魔女の集合体じゃないかと指摘されているけど、私見としては「魔女の集合体」ではない気がするのだ。むしろ、「戦いに斃れた魔法少女の魂の集合体」ではないかと。
  • というのも、第6話でQBが「魂」という言葉を使ったのが妙に気になっているのですよ。死んだ魔法少女の魂魄の「魄」の暴走がワルプルギスの夜なのではないかと予想。
  • 突き詰めると、魄の暴走の最終形態が魔女化じゃないかということなのですが。
  • 漫画版のほむほむの台詞を見ていると魔法少女の生と死はおそらくループしていてほむほむはその外側にいる存在っぽいんですよねえ。

(2/19)

  • ワルプルギスの夜については先日予想postをしたけど、「Magia」のジャケ画像を見るに、最後はまどかとほむほむの合体攻撃で必殺必中ライジングアローしちゃうんだろうなあ。

(2/26)

  • ほむほむがまどかLOVEであとの連中はどーでもいいやなのはMagiaの歌詞を見ていればなんとなく解る。が、ラストはシンちゃんとアスカみたいになったりしてなーw
  • 魔女を越え、魔法少女を越えて、今、神になる!(神の戦士として再生せよ! 魔法少女まどかとして再生せよ!)

(4/20)

  • まどかとほむほむはどうなるのかね。二人で遠い世界に行っちゃう系のオチだと予想してるんだけど、はてさて。

えー、命中率10%くらいですかねw

ワルプルギスの夜については完全にハズレですね。超巨大サイズの超強力な魔女、という意外の描写はありません。そして、このことはワルプルギスの夜との戦いの描写とも関連します。まどマギのクライマックスはまどかとほむほむによる少年漫画的な友情バトルになるものと思っていました。ED主題歌「Magia」のアニメ版ジャケットがそんな感じでしたし。でも、それは完全にジャケ絵詐欺でしたw そもそも、ワルプルギスの夜の存在意義は「ほむほむ一人では絶対に勝てない超強力な魔女」であること、すなわち、まどかが動かざるを得ない状況を作り出す役割たることにあり、バトルシーンを見せるための存在ではなかったようです。

ほむほむの素性については認識がむしろ逆でしたかね。後述するように、時間の環の外にいるのではなく、ほむほむこそが時間の環の内側に囚われた存在だと言うべきでしょうね。なお、「ほむほむの正体はOPでまどかの傍にいる黒猫」という説をネットでよく見かけまして、私はこれは違うだろうと思っていたのですが、はたしてやっぱり違ったみたいです。OPの黒猫については、虚淵氏ご本人さえシラネと言っていたらしいので。作画陣が勝手に描いたみたいですよw

神の戦士については大当たりですた。神の戦士というよりも神様になってしまいましたがw 『封神演義』の妲己みたいなオチだ。

まどかとほむほむの運命については最広義には当たりですが、まあハズレですね。二人で手に手を取って消えていく系だと予想していましたけど、消えたのはまどかだけでしたし。


それにしても、見事に外されましたねw もっとも、自分の予想とは違っていましたけど、全く想定外の展開というわけではない。「ああ、そっちか。」という感じですかね。「こんなの過去にもどこかで見たな」という展開はしばしばありました。

ラスト3話を見ていて私が思い浮かべた過去のアニメが3本あります。

一つ目は『魔法騎士レイアース』。「お姫様を助ける正義のヒロイン」というシチュエーションでヒロインたちを釣った上で「柱」システムの残酷さを見せつけて彼女たちにトラウマを植え付けた第1部と、そのトラウマの超克と「柱」システムの解消に向けて展開する第2部、いずれもまどマギと似た感があります。もともと、大川七瀬の脚本って虚淵脚本よりもえげつないと思うんですけどw

二つ目は『舞-HiME』。前半のバトルヒロイン展開と後半のドロドロの愛憎劇、味方だと思っていた人物(神崎黎人)が実は黒幕だという展開は、まどマギと同系統だといってよいと思います。この作品も音楽は梶浦由紀ですね。

三つ目は『斬魔大聖デモンベイン』。輪廻を繰り返しながら戦い続ける主人公、そこから抜け出すための時間軸の破壊、異世界の神となる主人公とヒロイン。形としてまどマギに一番近いのは同作のような気がします。ニトロプラス作品だし。まどかとほむほむは九郎とアルのようになるというのが私の予想だったんですけど。ちなみに、ナイアさんとQBのポジションがちょうど同じですね。

とまあ、私一人でも咄嗟に3作程度は似た雰囲気の過去の作品が思い浮かびます。別にパクリとかそういう意味ではなく、まどマギも、シナリオを個々のパーツに分解した場合には、特に目新しいものが出てくるわけではないということです。でも、それらのチョイスや組み合わせ方はとても上手だったと思うのですよ。そこが料理人の腕の見せ所ですね。

そこで、ラスト3話における物語の収束について、ほむほむとさやかの各々のスタンスから見てみようと思います。



3.暁美ほむら鹿目まどか

物語を通じて、まどかとほむほむはまさしくカードの表と裏のキャラであったと言えます。魔法少女に憧れながらも魔法少女になる踏ん切りが付かないままに守られる側にいた気弱な少女、それが9話までのまどかであり、まどかを守る立場にいたのがほむほむです。

しかし、10話以降でその立場が逆転します。それはまさに、カードの表裏をひっくり返したかのように。ほむほむの居た本来の時間軸では、魔法少女として活躍するまどかに対し、ほむほむは体が弱く引っ込み思案な普通の少女でした。それが、まどかに惹かれて魔法少女となり、ともに戦い、終にはまどかの最期を看取ることになります。そして、この時に、まどかと約束をするわけです。QBの口車に乗って魔法少女になってしまった過去の自分を助けてくれ、と。以後、ほむほむは、時間操作という自身の特性を活かして、まどかが魔法少女にならずに済む世界を探して時間軸を渡り歩いていくことになります。

この手のシチュエーションはアニメ等ではわりとよく見かけます。つまり、友人や恋人の最期の言葉によってそれ以後の行動原理を拘束されてしまうというパターンです。その例としてとっさに思いついたのが『ロードス島戦記』のベルド皇帝だったりするのですが、それはさておき、まどかとの約束は、もはや約束どころか、あたかも呪詛の如く、ほむほむの行動を束縛することになります。

もっとも、ほむほむが過去の時間軸を渡り歩けば渡り歩くほど、時間軸の因果律同士が結合しあって、まどかの魔法少女としての資質が上がっていくという皮肉な結果になるのは、QBが指摘したとおりです。ほむほむがまどかを救おうとすればするほど、事態はまどかにとって不利な方向へと向かっていきます。魔法少女の希望の行きつく先が絶望でしかないのならば、どんどん深みにはまっていく絶望の螺旋に囚われたほむほむは、まさしく究極の魔法少女であったといえます。

ほむほむの置かれたこの状況に対して、QBと契約を交わすことでまどかがとった措置は、「あらゆる時間軸における魔女の発生プロセスを否定する」というものでした。つまり、魔女の発生という因果律そのものをキャンセルし、QBによる魔女養殖システムの存在する世界を改変したわけです。この結果、まどかは人間よりも高い階梯で全時間軸に干渉しうる存在となり、それゆえに、ほむほむと同じ時間軸において人の姿で顕現することは出来なくなりました。その代わりに、ほむほむは永劫の時間の鎖から解放されたわけです。ここに至って、まどかはほむほむに守られる側ではなく、ほむほむを守る側へとシフトチェンジするのです。端的に言って、まどかのとった行動は、他の全ての魔法少女たちのためではなく、ほむほむ唯一人を守るためのものであり、他の魔法少女が救済されるのはその副産物に過ぎないのだと考えるのですが、どうでしょうか?

そして、二人のこのような関係を象徴しているのが、主題歌の「コネクト」と「Magia」です。この両曲の歌詞はともにまどマギのストーリーを反映しています。特に「Magia」についてはずばりそのままと言ってもいいくらいに暗喩された歌詞でした。もっとも、「Magia」の最後の「世界を変える力がこの手にあると囁く」という歌詞が、世界を守るという意味ではなく、文字通りに世界の理を変えるという意味であるとは思いませんでしたがw さておき、9話までのイメージで行くと、儚くも初々しい「コネクト」はまどかの、重厚な「Magia」はほむら(とまどか)のイメージだと感じられたはずなのです。しかし、最終話まで見終わった今ならば断言出来ます。「コネクト」こそがほむほむを象徴する歌であったのだと。そこまで細かい仕込みをしてあったということには本当に感心します。


かくして、まどかの決断は「魔女発生の因果律を遮断すること」にありました。しかしながら、それが実際にどのように作用したのかは、実はあまり単純ではありません。そこで、それを検討するために、今度はさやかについて見てみます。



4.美樹さやか鹿目まどか

さやかについては、最後にどうなったかがいささか判りにくいものがあります。これについては、おそらく、次のように解釈出来ると思います。

まず、まどかによる改変前の世界に所属する、物語のベースとなっている時間軸(以下、「当代」という)においては、さやかは死亡しています。もっとも、さやかは魔女化した末に杏子と相打ちになって消滅しているはずなのに、遺体が「衰弱死」状態で発見されて葬儀が行われているという点については、理由がわかりません。が、この点はさやかの後の処遇に影響を与えるものではないと考えますので、ここでは保留します。

次に、マミ・杏子・さやか・ほむほむの4人が共闘していた時間軸。この時間軸は当代のものではなく、改変後の世界に所属する時間軸です。ここでは、さやかは戦いの最中に消滅しています。この時にマミはさやかが「最後の一撃で力を使い果たして消滅した」と言っています。重要なのはこのことです。

結論から言うと、因果律に対するまどかの干渉は、魔女の発生プロセスを遮断するというものに過ぎません。つまり、魔法少女の穢れた魂を魔女化させないだけであって、魂を穢れさせないことではないのです。魔法少女となったまどかが全時間軸の魔法少女たちに対して施した救済とは、心が折れて今まさに力尽きようとする魔法少女たちが魔女化するのを止めただけであり、その命を救ったわけではありません。いわば、死に水を取って安らかに逝かせただけなのです。そして、このことは、改変後の世界にあっては「魔女化」という概念だけが削除されたという形で反映されています。つまり、魔法少女たちは従来通りに心の持ち様次第でいくらでもソウルジェムを濁らせていきます。ただ、それが限界を超えた時に、魔女化するのではなく消滅するという形に置き換わっただけなのです。

このことは、上条恭介の演奏の場面でまどかとさやかの魂が語り合う場面でより一層裏付けられます。ここで、まどかは「さやかを助けるためには全てを無かったことにするしかない。しかし、それはさやかの本意ではないだろう(故にそうしなかった)。」という発言をしているからです。

当代においてさやかが魔女化した最大の要因は、上条への失恋です。そしてこれは、どの時間軸においても、さやかが魔法少女となる限りは不可避の結末です。したがって、さやかを助けるためには、そもそもさやかを魔法少女にしないようにしなければなりません。しかしながら、−これは推測ですが−、上条のような魔法少女とは関係無い一般人については、世界の改変や時間軸の別異による影響をおそらく受けないことになっているものと思われます。つまり、彼が事故でヴァイオリンを弾けなくなるという事実は固定されているのでしょう。そうであるならば、上条の腕を治すためにさやかが魔法少女になるという結果もまた、避けられないものであるといえます。

そうすると、どうしてもさやかを救うためには、まどかは因果律をさらにねじ曲げなければなりません。すなわち、魔女の存在のみならず、魔法少女の存在そのものを消し去らなければならないのです。そうしたならば、確かにさやかは救われます。しかし、この場合には上条が再びヴァイオリンを弾けるようにはなりません。そこで、さやかを救うか上条を救うかの二者択一として、まどかはさやかの意思を尊重して上条を救う方を選んだのです。

なお、マミと杏子が生きている点ですが、彼女たちはそれぞれ当代(あるいはそれ以外の時間軸でも)においては魔女と戦って殉職していますが、まどかによって魔女の存在そのものが遡及的に消去されていますので、殉職の因果が遮断されているものと思われます。この時点で彼女たちが戦っていた相手が何かは判然としませんが(魔女以外の何かですが、魔獣かどうかは判りません)、さやかのように消滅する日が彼女たちにもいずれは訪れるのではないでしょうか。また、マミさんの「美樹さんは逝ってしまったわ。円環の理に導かれて。」という台詞は、既にまどかの記憶を失っているマミのどこかに、まどかについてのごくわずかな意識が残されていることを示唆しているのでしょうね(円=まどか、ですよ)。


しかし、さやかのことを抜きにした場合に、魔女の存在を削除はするが魔法少女の存在は削除しない、というまどかの行動にはたして合理性はあるのでしょうか? これを肯定するならば、それはインキュベーターの目的そのものを肯定することになりますが、まどかにはたしてそこまでの確証があったのかは謎です。もっとも、魔女の存在しない世界においても魔獣が生み出されていることからも、負の心が生み出す害悪を根底から消し去ることは出来ないのだという前提があるのかもしれません。この辺りは虚淵氏の思想の賜なのかもしれませんね。しかし、虚淵脚本でこんな綺麗なオチがつくとは思ってなかったよw

もっとも、一つだけ気になった点があります。魔獣と戦う時のほむほむの背中から映えていた、某禁書目録の一方通行さんのような黒い翼です。この翼がいったい何を示しているのかははっきりとは判りませんが、明らかに禍々しく描かれていました。ほむほむの現在の心象風景の具現化か何かなのでしょうかね。あるいは、二期フラグかもしれません。



5.おわりに

以上、ちょっぴりぐだぐだと書いてみました。おそらく、他所のブログや2ch等でも、これ以上の感想文や考察、熱い議論が書き込まれていることと思います(残念ながら見て回る時間的余裕が目下ありません orz)。実況的に「面白かった・可愛かった・笑えた」で終えられる作品も、それはそれでよいのですけど、後々まで語り草になるような作品というのはやはり貴重です。ヤマトとか1stガンダムとかエヴァとか、みんな好きでしょ?w

まどマギは、オリジナルのTVアニメとしては間違いなく数年に一本(個人的感覚としては、5年以上10年以内に一本)の傑作だと思います。個人的な評価として、ここ10年くらいで作られた物の中では、『舞-HiME』(2004)以来の、そしてそれ以上の傑作かな。良くも悪くも(どちらかというと悪しき風習だと思っていますが)原作付きが圧倒的大多数を占める現代アニメ事情において、これだけのオリジナル作品を送り出してきたことは、日本のアニメ業界の底力を物語るものではないでしょうか。ちなみに、私は本作のBDを買います。予定外の出費ですが、これからまた数年はこんな作品に出逢えないのではないかと思うと、ここは思いきって行っておくべきかなと。

もちろん、限定生産品の同梱特典に引かれている面もあります。特に、サントラですね。サントラくらい後で出るんじゃないのかとも思ったのですが、ネットを見ているとどうも、「アニメのサントラ単体では売れないからこそBD/DVDの特典として抱き合わせで出すんだよ」という意見の方が優勢な気が致しますもので。言われてみると、私自身もこの10年くらいはアニメのサントラを買った記憶がありません。90年代にはちょこちょこ買ってましたけどねえ。今は確かに売れてないのかも。あとはkonozamaされないことを祈るばかりです。


最後に、制作スタッフにお礼を言って、本エントリを〆たいと思います。素晴らしい作品をどうもありがとう。